植物科学の可能性と未来~リグニンの謎に挑む~
植物の多面的な価値と重要性
植物は、光合成によって大気中の二酸化炭素を吸収し、酸素を放出することで、大気の組成を安定させる重要な役割を果たしています。この働きは地球環境を維持する上で欠かせず、私たち人間を含むすべての生物の生存に深く関わっています。
さらに、植物は人間をはじめとする多くの生物の食糧源であり、生命活動を支える根本的な存在です。多くの植物からなる森林は、さまざまな生物にとっての生息地であり、生態系の維持にも大きく貢献しています。
また、植物からは漢方薬や有用な化学物質が抽出?生成され、古くから人類の医療や健康に役立てられてきました。さらに、建築資材、綿花、紙など、私たちの暮らしに欠かせない素材としても、植物は幅広く活用されています。
植物科学の意義と可能性

バイオマスとは、生物を意味する「bio(バイオ)」とかたまりを意味する「mass(マス)」を合わせた言葉で、動物や植物由来の有機資源を原料として得られる再生可能エネルギーです。中でも、植物バイオマスは太陽エネルギー、水、二酸化炭素を利用した光合成によって再生産されるため、持続可能な資源として注目されています。
一方で、従来の石油精製(Oil Refinery)による物質供給は化石燃料を原料とするため、資源の枯渇や環境への負荷といった持続可能性の面で課題があります。これに対し、植物由来のバイオマスを利用するバイオリファイナリー(Bio Refinery)は、再生可能な資源を使い、環境への影響も比較的小さいことから、将来的な代替技術として期待されています。
このように自然を理解し保護しながら食糧や医薬品、素材、エネルギーといった多様な形で植物を利用?改良していくことは持続可能な社会の実現に向けて非常に重要なため、植物科学は近年、注目を集めている研究分野の一つとなっています。
ラム助教は、植物特有の構造である細胞壁(plant cell walls)に含まれる「リグニン」という物質に注目して研究を行っていますが、このリグニンにはまだまだ多くの謎が残されているといいます。
細胞壁の役割

植物を細胞レベルまで拡大して見てみると、葉緑体、液胞、細胞壁などから成っているのがわかります。細胞壁とは、ひとつひとつの細胞を構成する細胞膜の外側の硬い部分のことです。細胞壁は全ての植物細胞が持つ一次細胞壁と、強度が必要とされる維管束組織や表皮組織などの細胞にのみ形成される二次細胞壁とに大別されます。
一次細胞壁は主にセルロース、ヘミセルロース、ペクチンから構成されていて、二次細胞壁は主にセルロース、ヘミセルロース、リグニンから構成されており、これら複数の高分子からなる構成成分のうちセルロースは繊維状で強度を与える一方、リグニンはその構造をさらに強固にする役割を担います。
これらの成分構造や含量の違いにより、木のように硬い植物や、繊維として使える柔軟な植物など、様々な素材特性が生まれています。また、動物には存在しない細胞壁があることで、骨格を持たない植物は体を支えることができ、さらに耐水性を獲得し病原菌から身を守る役割も担っています。
構造が多様すぎるリグニン

リグニンは、芳香族化合物を含む炭素化合物が多数結合してできた高分子化合物であり、糖類は含まれていません。しかし、その構造は石油由来の抽出物に含まれる有用な化学物質と似ています。現在多く利用されている種々の化学製品を製造するためには、多様な性質を示す芳香族化合物を原料に含むことが求められるため、植物に含まれるリグニンは汎用性の高いバイオマス資源として有望視されています。
一方で、リグニンは非常に多様で不均一な構造を持つため、その解析は容易ではありません。リグニンの合成は複数の酵素によって複雑に調節されており、植物の種類によってその構造や合成経路が大きく異なります。特に単子葉植物においては、フラボノイド系化合物が豊富に含まれており、それがリグニンの構造の多様性をさらに複雑にしていると考えられています。
フラボノイドとリグニンの関係

比較的原始的な植物のリグニン構造は、画像左下の「Gymnosperm and dicot lignin」にあるように、モノリグノールを主成分とした比較的シンプルな構造をしています。一方、右下の「Grass Lignin」は、イネ科植物に見られるもので、p-クマル酸やフラボノイドといった成分が加わることで、より複雑な構造を持つことがわかります。
こうした修飾により、リグニンの性質が変化し、植物の硬さや柔らかさ、背丈の違いといった形態にもバリエーションを与えています。つまり、植物種ごとに異なるリグニンが存在し、その多様性が植物の性質や生存戦略と深く関係しているのです。
植物は、シダ植物から裸子植物、双子葉植物、単子葉植物へと進化してきましたが、リグニンの構造も進化に伴って複雑化しているといわれています。すなわち、進化の過程でリグニンの多様性を高めることで、新しい能力を獲得してきたとも考えられます。このように構造がきわめて複雑で多様なため、リグニンの正確な化学構造はいまだ完全には解明されていません。
フラボノイドは、植物の花や果実、葉、根に含まれる芳香環構造を含むポリフェノールの一種であり、色素、抗酸化作用、病原菌への抵抗性など多様な役割を担います。これらがリグニン構造の一部に取り込まれていることは、植物化学的にも極めて興味深い現象であり、植物の進化的適応の一端を示しています。
酵素によるリグニン制御と応用可能性
先にも述べたように、リグニンは、複数の酵素が連携して働くことで合成される、非常に複雑な高分子です。この合成プロセスにはまだ解明されていない酵素も含まれており、リグニンの構造を完全に理解するには至っていません。
ラム助教は、リグニンの合成に関わる酵素を特定し、それらの働きを人為的に調節することで、リグニンの構造を変えられるのではないかと考えています。これにより、たとえば素材として適した「硬い植物」や、「発酵に適した植物」「柔らかい植物」など、目的に応じた植物の改良が可能になることが期待されています。
稲に着目した研究と実用化への展望

アジア圏では主要作物である米を主食としていることから、ラム助教は「稲」に着目し、稲のリグニン構造とそれを制御する酵素の研究を進めてきました。そして2017年には、特定の酵素の働きを制御することで、リグニン含量を減少させることに成功しました。これにより、糖質の生産性を大きく向上させることができました。
この成果は、バイオエタノールやバイオプラスチックの製造において、原料の利用効率を大きく改善できる可能性を示しており、植物の性質を人工的に改変できる可能性を提示するものです。
ラム助教は今後、バイオ燃料や農業用途に適した植物の開発など、植物の性質を人工的に変えることで、より幅広い応用が可能になるよう研究を発展させていきたいと考えています。
国際的評価と研究への情熱
好きなことを続けた先に待っていたもの
ラム助教は、2024年に、この研究分野でもっとも権威のある学会のひとつであるアメリカ植物生理学会(American Society of Plant Biologists)において、若手研究者に贈られる「Robert Rabson Award」を受賞しました。この賞は、バイオエネルギー分野において優れた研究成果をあげた博士号取得後10年以内の研究者に贈られる栄誉ある賞です。
高校時代に香港大学のアウトリーチプログラムに参加したことがきっかけで植物科学に興味を持ち、その後同大学に入学し、博士課程を修了したラム助教。研究を続けるうち偶然に、植物の持つフラボノイドを見出し、そこからリグニン研究へと進んでいきました。
リグニンの研究を続けていける場所を探していたラム助教は金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网で教員の公募を見つけ、「大好きな日本で研究できることが嬉しかった」と言います。遺伝子工学的手法で生命科学研究を行っている疋田教授がメンターとなり、現在は研究室のメンバーの一員として金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网唯一の植物学分野を専門とする助教となったのです。
遺伝子組換え実験をするためには厳重な決まりと完全な隔離システムが必要になります。しかし、大学から許可を得て現在では整ったシステムで研究もできるようになりました。
植物科学が切り拓く持続可能な未来

植物は「再生される自然の資源」であるだけでなく、医薬、素材、エネルギーといった多方面で応用可能な可能性を秘めています。
中でも、リグニンの構造とその制御技術の発展は、従来の枠組みにとらわれない形で植物の「使い方」を根本から革新する可能性を持っています。
ラム助教の研究は、植物科学という一分野にとどまらず、環境負荷の軽減や、より持続可能な資源利用のあり方に貢献する可能性を含んでおり、現代社会が求める持続可能な仕組みづくりに貢献する学際的な取り組みに繋がっています。
その先進的なアプローチは、持続可能な未来を支える新たな基盤づくりに貢献するものとして、今後ますます注目を集めていくことでしょう。
(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです