江戸時代における大名家の婚姻と秋田藩主の実像に迫る研究
秋田藩佐竹家の歴史
日本近世史とは、織田信長?豊臣秀吉の時代(織豊期)から江戸時代を対象とする歴史学の一分野を指します。この時代の政治?社会?文化は多様な変遷を遂げていた一方で、大名家の婚姻は幕府の統制と密接に関わる重要な政治的要素の一つでありました。
清水先生は、江戸時代の大名家、その中でも秋田藩佐竹家を中心に大名家の婚姻、妻妾制に注目した奥向の女性の役割のほか、秋田藩主について古文書を読み解き研究を行っています。

佐竹家は源頼義の三男義光を祖とする源氏の名門で、12世紀半ばから常陸国(現:茨城県)を拠点としていました。戦国時代には南奥羽(現:福島県南部)と下野国東部(現:栃木県)まで支配下に置き、豊臣秀吉には54万石の領有を認められた大きな大名でした。
1600年の関ヶ原の戦いで佐竹義宣は、徳川家康には味方せず、中立を保ちました。そのため義宣は1602年に家康から出羽国への移封を命じられ、翌年から久保田城の建設と城下町の建設に着手し、現在の秋田市中心部の開発が進められることになりました。
秋田藩は久保田城を拠点として、秋田郡?山本郡?河辺郡?仙北郡?平鹿郡の六郡20万5千石余を支配しました(現在の秋田県の鹿角郡、由利郡を除いた地域)。1869年の廃藩置県まで、12代の藩主のもとで藩政が展開しました。
江戸時代における大名家の婚姻と女性
江戸時代の大名家において、婚姻は幕府の許可制のもとで管理されていました。つまり、将軍の許可を得られないと大名や大名の子は婚姻できない仕組みがありました。これは、大名家同士の恣意的な婚姻関係を防ぐとともに、徳川将軍家の娘や養女が大名家へ降嫁することで幕藩関係を安定化させるという目的があり、江戸時代初期には将軍の意向に沿った形で婚姻関係が形成されていったといいます。
しかし、幕藩関係が安定してきた江戸時代中期頃には将軍が婚姻に関わることも減り、大名家が幕府に縁組願を提出して許可を得る方式へと変わるなど、時代の変遷に伴い、婚姻の仕組みにも変化が生じました。

清水先生の著書「近世大名家の婚姻と妻妾制」
大名家の婚姻の研究と関連して、清水先生は、大名本妻や側妾をはじめとした女性の地位と役割にも注目しています。江戸時代の婚姻形態は基本的に一夫一妻でしたが、大名家では世襲制を維持するために子どもをたくさん持つ必要がありました。
江戸城大奥に関するドラマなどでは、「正室」と「側室」の対立が描かれることがありますが、実際にはあり得ないのだそうです。そもそも「正室」と「側室」というのは、18世紀半ば以降に女性の地位を示すために用いられるようになったもので、近年の研究ではこの点に注意を払いながら、大名家の女性の地位や役割の分析が進められています。
「正室」すなわち本妻は、将軍から縁組を許可され、公的に大名の配偶者として認められました。それに対して「側室」は、大名の実母が大名の家族に準じた地位を認められることはあっても、あくまで大名家内でのことで、大名の配偶者ではありませんでした。このように「正室」と「側室」には厳然とした地位の違いがあり、その点をふまえてそれぞれの役割を分析する必要があるのだそうです。
こうした研究は清水先生の著書『近世大名家の婚姻と妻妾制』(思文閣出版、2024年)にまとめられています。
武家屋敷の空間構造
このような大名家の研究を進める上で、大名居城や江戸屋敷などの空間構造を理解することも必要だと清水先生は言います。女性を中心とした空間「奥向」と、男性を中心とした「表向」の関係性に着目し、双方を分析することで、近世大名家の様相をより正確に描くことができると考えています。
秋田藩の拠点であった久保田城本丸については、江戸時代後期の絵図が残されており、そこから空間構造がわかります。本丸は表玄関を入ると、「表向」の空間が広がっていました。「表向」の「表」の空間には大名による儀礼が行われる大広間や役人の執務部屋がありました。そこからさらに中に入ると、「奥」の空間があり、大名の執務空間や日常の生活空間になります。
一方で、藩主の日常空間からさらに奥に入ると、「奥向」といい、当主の妻子や側妾、日常生活を支える奥女中が仕える空間がありました。江戸時代の大部分の時期、大名本妻は江戸上屋敷で生活したので、久保田城本丸奥向には大名の側妾と庶出子が生活していました。そのため居城奥向の規模は小さく、江戸上屋敷には大規模な奥向がありましたが、その絵図は残っていません。「奥向」には広敷という空間もあり、奥向の財政や警備を管轄する広敷役人と呼ばれる男性家臣が仕えていました。
「表向」と「奥向」の間にはお鈴廊下があり、ここは大名が奥向に出向く際に使用されました。「奥向」に入ることのできた男性は、大名の他、限られた役人のみで、男女の入れる空間が厳密になったのは江戸時代からだと言われています。
この大名家における空間構造をめぐる議論も進展しているといいます。従来は女性や子どもを中心とした「奥向」は閉鎖的な空間で、「表向」の政治的なことには関わらない空間と考えられていたそうです。近年、「奥向」は「表向」から隔絶した空間ではないと捉え直され、清水先生の研究では大名家の女性たちは「表向」の場に全く関与しなかったわけではなく、大名家の養子や相続を決定する過程で「表向」の家老が「奥向」の女性たちの意向を聞き、同意形成していたと論じられています。
また、近年の研究では「表向」=「ハレ」(非日常)、「奥向」=「ケ」(日常)という視点から分離構造を理解すべきではないかという議論もあるそうです。今後、多様な視点から分析されることで、大名家研究も深化していくのではないかと清水先生は言います。
秋田藩の研究と史料
秋田藩佐竹家に関する史料は「佐竹文庫」として、秋田県公文書館に所蔵されています。「奥向」に関する史料も豊富に残っていますが、このほかにも、「表向」の家臣が詳細に記録した日記類が多数伝来しています。その代表的なものとして、江戸時代初期の家老?梅津政景による『梅津政景日記』や、幕末期の家老?宇都宮孟綱が28年間にわたり綴った『宇都宮孟鋼日記』などがあります。
梅津政景以降、家老をはじめ、佐竹家の家臣は膨大な量の日記を残しており、それらを通して、秋田藩における政治の動向や、武士の生活実態を読み解くことができます。清水先生が秋田藩について研究しようと思ったのも、こうした多くの史料が残っていたからだそうです。先生が卒業論文で用いたのは、『国典類抄』という史料ですが、これは初代藩主佐竹義宣から8代藩主義敦の時期にかけて、佐竹家の婚姻や儀礼について項目をたてて、家臣の日記を引用してまとめたものです。

江戸時代の史料は、くずし字で書かれているため、史料の原本を読む際にはくずし字辞典を使用しながら読解するそうです。2年生以上が受講する日本史演習や日本史実習では、こうしたくずし字を読むことに挑戦しますが、秋田藩に関する史料は、くずし字を翻刻して活字化した史料集も多数刊行されており、研究に取り組みやすい環境にあります。
秋田藩に関する史料については、地域文化学科の1年生を対象とした「秋田学基礎」(秋田学入門)の授業を書籍化した『秋田を学ぶ―文化と歴史―』(佐藤猛他編、秋田文化出版、2024年)でも清水先生が解説しています。
しかし、江戸時代以前の古文書や記録を学ぶためにはくずし字の読解力は欠かせません。翻刻には多くの時間や労力を要するため、清水先生は若い世代への継承にも力を入れています。
佐竹義和の実像に迫る評伝の刊行をめざして

日記などの史料を書き残したのは、家臣だけではありませんでした。秋田藩主のなかでも9代藩主佐竹義和は自筆の政務記録などを多く残しており、現在清水先生は、その点に注目して義和の実像解明に取り組んでいます。佐竹義和は藩政改革を推進した名君の一人とされており、高校日本史の教科書には米沢藩の上杉鷹山(治憲)、熊本藩の細川重賢の次に佐竹義和の名前が載っています。
実は、佐竹義和が名君として有名になったのは明治以降のことで、学問を奨励して藩校学館(のちの明徳館)を創設するなど、藩政改革を進めたことを当時の秋田市長である大久保鉄作が伊藤博文に紹介したことがきっかけだと言われています。
清水先生が義和に注目したのは、秋田県公文書館で誰が書いたかわからず、これまで研究で使用されていない「用向書留」という史料に出会ったことがきっかけだそうです。清水先生は
「読んでみると横柄な書き方で、家老や役人の名前が呼び捨てで書いてありました。家臣が残したものであれば様や殿という敬称を付けるはず。しかし、付いていないということは年代的にも書いたのは藩主の義和しかいないと思った」
と言います。「用向書留」は日記というよりは、政務を行う上で重要なことを記した備忘録のようなものだそうです。義和は29歳の時から急死する4日前まで12年間「用向書留」を記し、全17冊が伝来しています。調査を進めると、義和は江戸での公務記録も多数作成していたこともわかったそうです。
清水先生が「用向書留」などを分析することで、佐竹義和の改革がどのように進められたのか、また、その政策が秋田藩の財政や社会にどのような影響を与えたのかが明らかになることが期待されています。
「佐竹義和の実像に迫り、「用向書留」を翻刻して史料集として刊行することが今後のメインテーマのひとつであり、私のライフワークとなるでしょう」と語る清水先生の研究は、この先もずっと続いていきます。
地域史料の整理と調査

金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网教育文化学部地域文化学科では、地域連携推進事業として公募型のリサーチプロジェクトを行っています(金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网6年度までリサーチプロジェクト)。清水先生は史料を収蔵している自治体からの要望を受けて、学生と地域で作成された史料の整理と調査を進めています。
金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网5年度には橫手市立図書館から依頼を受けて、旧平鹿町域の村で作成された江戸時代後期から明治時代にかけての地域史料の整理と調査を行いました。この史料は村の運営を担った村役人が残した史料で、地域社会の動向を分析する貴重な史料です。

秋田藩主や家臣たちの史料は、秋田県公文書館など公的な史料収蔵機関(アーカイブズ)に収蔵され、整理された上で公開されていますが、地域には個人蔵の史料の他、自治体で収蔵していても整理ができていない地域史料が膨大に存在しています。少子高齢社会にあって、江戸時代以来のコミュニティが史料とともに消滅していくことは避けたいと清水先生は言います。
地域の歴史を明らかにし、未来に伝えるためには、史料が必要不可欠であり、それを後世に伝えるための活動をしなければなりません。
くずし字で書かれた史料の整理や分析方法の専門的教育と人材育成に取り組みながら、地域史の研究や地域史料の継承に貢献することが期待されます。
学生の声
3年次 船木 楓大 さん

私は大学入学以前から日本史に関心があり、清水先生の授業を1年次の時から履修しています。2年次以降には古文書の整理技法や読解方法を学ぶ日本史実習などの授業があります。
日本史実習では、襖の下張に使用されていた古文書に実際に触れて、整理作業を進めます。古文書を、くずし字辞典を用いて読み解き、表題(タイトル)を付け、作成者や受取人を調査?分析します。また、日本史演習では、秋田藩に関する史料の読解を行い、政治や社会について理解を深めています。
私の出身地域では江戸時代から継承されている祭りがあり、史料を手掛かりに、当時の祭りの運営や地域の状況について考察し、卒業研究としてまとめる準備を進めています。現在は先行研究で明らかにされていることを把握する作業を進めつつ、史料を読んで江戸時代末期の祭礼について、当時の史料から読み解いていきたいと考えています。
高校までの歴史の授業は歴史の流れを追うことが中心ですが、大学では史料を探して分析や考察することが中心となります。地元秋田の歴史をさらに深く知りたいという方、自分の視点で分析してさらに深堀りしてみたいという方にはぜひ清水先生のゼミに所属してほしいと思います。
また、私は秋田インターンサークルという学生と企業を繋げるというミッションを掲げた学生団体に所属しています。この団体では他大学の学生と繋がることもできます。また、食事をしながら緩やかに交流し、就活や企業のことを知ってもらうイベントを開催しています。
地域文化学科に所属する学生が企画?運営するプロジェクトのあきた未来カフェにも所属していますが、そちらは同級生や先輩、後輩、社会人との交流の場となっています。ぜひ金鲨银鲨_森林舞会游戏-下载|官网に入学して様々な方と出会い、大学生活を楽しんでほしいと思います。
(取材:広報課)
※掲載内容は取材時点のものです